インプットとアウトプットを繋げたい話
詰め込むことは昔から得意だった。
吐き出すことは昔から苦手だった。
正直アウトプットする際にスっとインプットした情報をトレースできる人になれず苦しんだ記憶だらけである。
フォームが定まらないのでスポーツの上達が遅い。テストでのイージーミスが止まらない。などと書いていくと、「それってアウトプットする練習をしなかったからじゃないの?」とこの文章を正論で塵にして集めて消却する愚か者が湧いて出そうなのでお引き取り願いたいところである。
自分がやっていることが合ってるかどうかがあまり関係ない、理論値を目指していればそれでいいよと許される行動が自分にとってありがたかった。「こう飛んでいかなければそれは間違っている」とか「こう行動しなければ違反」とか、そういう視点で評価できてしまう動作が非常に心許なくなる。自分を信じられないので大抵上手くいかずになんで出来ないんだだの何やってんだだのと言われる方向に進む。
データベースは結論を出せないとはよく言ったもので、大事な場面で踏み込める人種はどれだけインプットしたかよりもどれだけアウトプットできたかで決まっている。知識は使ってこそ輝く。知識を使えないのは糧になれど役には立たない。はいここ異論は認めるポイントです。筆者がそう思っているだけでーす。過激な論調になると必ずセーフティが発動します。
気づいたらすっかり失敗を極端に恐れる体質になってしまって、より大事な場面でしばしば表出するようになってしまった。もう後戻りも出来ないし道を照らしてくれる指導者もいないので行動を伴わない理想家の完成である。完璧主義だし中身はへっぽこだし生き恥晒して笑いものになるのが関の山。地に足つけて歩く人が本当に尊い。「こうなりたい」に届かない話は以前にもしたけれど。思考の問題ということを突き詰めて、よっぽど手強い敵である。と呆然とするしかないのだ。
自省はネガティブな方向にしか進んでいかないので救いのない話が続く。ポジティブな自省をする時は来るのだろうかともがいても水の中から浮かび上がれない、ずっと苦しいような悪夢を見ているような気分をどこかに抱えながら、なるだけ考えないようにして日々が過ぎるのをじっと耐えている。
鬱になる時は体が冷え固まっている時と疲れている時です。満腹になるまで飯を喰らい、暖かい風呂か布団に包まってそっと意識を飛ばすのが得策です。
懐古主義的思想
リバイバルという考え方がある。どの時代にもあった「これイイね」を再興させる動きのことだ。
人は飽きることで次の新しさを求めるようになる訳だが、どのタイミングでの今でも、それをあえて使うことのなくなった、旧時代の「良さ」を好む者は懐古主義者として残り続ける。
懐古主義者がリバイバルを起こす例もあるのだろう。というか調べてない。ただ、長い目で見た時に旧時代の遺物を「良い」として再興させるのは、もっとあとの世代の人々だ。
彼らにとっては初めての刺激となるので、どんなに古い技術だったとしても、新鮮な刺激として受け入れられる。音楽でも美術でも、常に新しいモノを、生み出している。懐古主義的な感覚で新と旧を比較するのはノスタルジーかもしれないが、もしかしたら……
と、当たり前のことを思いました。おわり。
テキトー料理記事が1番伸びたの人間って感じ。
頭痛
頭が痛い。
頭が痛いのと、人生でこんなに向き合わなければならないとは中学二年生の頃の自分は到底思ってもいなかっただろう。
いわゆる偏頭痛と言うやつで、低気圧が来たり、体の調子によって血管が開くんだか縮まるんだかして周りの神経を圧迫する。頭が痛くなる。という理屈だ。
困ったことに花粉のようなアレルギーと一緒で治ることがないらしい(治るなら教えて欲しい)。なので脳外科で処方してもらう偏頭痛用の薬、マクサルトとかいうめちゃめちゃ強そうなアメコミの敵みたいな名前の薬を飲むことになるのだが、これが恐ろしいほど効いてくれる。そのまま治ってくれないかと錯覚するほど頭痛の具合がよくなるのだ。なんなら薬が効いてきたら体感できるほどによく効くので、これ幸いにといつもお世話になっている(今現在実際に服用しているのはリザトリプタンというジェネリック医薬品)。
問題点がひとつある。効きすぎて、体が溶けたかのように力が入らなくなる。運転するなと書かれているのも、服用して運転などしようものなら気絶して死にかねないのでさもありなむ。
のっぴきならない事情で飲もうが外回りをせねばならぬのでどうしようもない。いつか死ぬんじゃなかろーかと本気で考えている。
頭が痛いのも肩こりによく似た症状から来るので何故か我慢してしまう。そして気がつけばいつもコダックみたいになっているので、そろそろサイコキネシスが使えるようになっていてもおかしくないのだが…
向き合い始めてそろそろ10年が経とうとしているようで、だんだん頭痛の頻度も高まってきている。せめてエスパータイプにして欲しいと思いながら、明日は大丈夫だろうかと思いを馳せてみる。
太った話
食べたいものが食べられるというのは実に素晴らしいことだ。
日々自炊が定着できないとあっては買うことで食料を確保する他なく、必然的に食べるものに偏りが生まれる。
人が腹が減った時に何も考えずにコンビニやスーパーで何を買うか?
糖と脂が詰まった「夢」だ。
あれは美味い。手を替え品を替え、こちらが食べたくなるように誘ってくる。
とりあえずどんな値段でも脂と糖が多ければ選んで貰いやすくなり、まんまと嵌ったのが私のような弱者である(?)
……とそんな具合に夢を掴んでいたら、体に夢が蓄積されてしまった。
パツンパツンに顔が浮腫んだり、しまりのない身体を手に入れたというわけだ。
食べる時は食べたいものを食べたいだけ食べろ、というのは私の根幹を支えるデブ精神の一つである訳だが、そろそろ根幹を据え替えないと支障がどこかに出てくるに違いない。必須処分エネルギーを基礎代謝と運動で賄うべく私は布団で決意する。そして、少しだけ…
食事はバランスと量に気をつけて。食べ過ぎも食べなさすぎも、偏りも不足もいけない。タンパク質を摂取して脂を運動で燃やす。これ大事。
とりあえず最近疲れ果てているので、終わらない健康への道はこれから進んで行こうかと。明日がんばろー。
食事
人に見せるものではないなと思う。
米を研ぐ。ザルに入れて流水で適度にじゃかじゃか。
炊いている間に、鶏肉を刻む。もも肉がなかったので余ったささみを小さめに刻む。
高菜があったのでそのまま使う。
フライパンにごま油をひき、ごまと油分が入り交じった香ばしい匂いがたってきたらささみ肉を入れ、しばらく火を通す。
白く火が通ってきたら、全体に料理酒をふり馴染ませる。料理酒が柔らかくしてくれたささみは、料理酒が居なくなるとぱちぱちと細かく弾ける音で見送る。
高菜をぶち込んで、しばらく炒める。
味付けが面倒なので何故かそこにあった麻婆豆腐の元(辛口)を投入し、とろみをつけて完成。
美味い。人に見せるもんじゃないなと思った。
魯肉飯もどきの豚肩高菜炒めと納豆を添えて。だいたい茶色である。今日も一日が終わる。
疲れ果てて料理するとろくなものが出来上がらないのは世の常ですが(?)、自分の場合はもっと考えた方がいいと思います。豆腐あるのに使ってないですからね。
補足:普段はもっとちゃんと作るので、そしたらまた記事で取り上げます。
余韻の話
余韻に浸る瞬間はいつだろうか?
人それぞれあるだろうけれど、自分は旅行後である。
1泊2日とか2泊3日の体験で得たものを持ち帰って振り返る瞬間に化学物質が分泌されて脳が活性状態になる(似非科学)。
計画をしたかとか、疲れたか、などでなく、実際にどんな体験ができたかが重要なので(少なくとも私はそう思っているので)、あんまり密にスケジュール通りの行動を…とできないところでよくとある血液型の人に「とある血液型っぽいよねソレ苦手」と言われるのである。
ただ、完璧なスケジューリングで経験を予習どおり習得するよりも、リアルに惹かれてその時どう行動できるかが重要、というだけで、オンタイムに動くことは忘れない。
これをしなきゃと思ってしまうと急に脳内物質がテンションをクールダウンしてしまう私にとっては、出発と移動とタイムリミットをそれぞれに設けてさえしまえばあとはその土地や場所で自由に行動できるほうが性にあっていた。
フリータイムって素晴らしい。
社会人になって、良くも悪くもやりたいことをやりたいようにできるようになってしまったので、そんなことを考えてみた。
余韻に浸る瞬間はいつだろうか?
余韻に浸れるような経験はできているだろうか?
またひとつ、人生の選択をする上で貴重な判断基準を手に入れたような気になっている。そんなことないかもしれない。どっちでも、後悔しなければ。
お読みいただきありがとうございます。キーボードで文字打つと超ドライになるので、活字も大変だななどと偉そうなことを考えている郁李です。
読んでくれているのか試しに開いてみただけなのか、アクセス数が僅かながらも増えた時に喜びを感じているので、不定期投稿ですが見てもらえると嬉しいです。ネタ募集中。
追記:完全に余談ですが余韻に浸ったまま寝落ちすると悪夢を見る傾向にあります。
それでは。