喋りながら考えちゃダメだよって話
喋りながら考えると失言だらけになるよ。
考えてから喋るとタイミングを逸脱するよ。
この先は何も考えてないよ
過去の痛い遺物が出てきたので供養する
本当に暇をもらってしまったので家で就活をしている。
なんか出だしとか意識して投稿していたような気がしたけど忘れたので本題へ。
おそらく高校生の頃、何を思ったかエッセイストにでもなれると思ったのか、ショートエッセイを一丁前に認めようとした跡が見られたのでそのまま投稿してしまえというなんとも恥ずかしい話なので、暇があったらお付き合いいただきたい。
それでは↓
ショートエッセイ「時間」
朝とか、昼とか、夜とか。起きる時間とか寝る時間とか。出勤する時間とか下校する時間とか。移動時間とか睡眠時間とか。人に生まれてしまった以上、何か時間に追われてしまうのが定めというものなのだろう。締め切りとか発売日とか。集中力が何分続いたからといって国民栄誉賞がもらえるわけでもなければ労働時間が長いからといって紫綬褒章に選ばれるわけでもない。受験とか就職とか。テストとか卒論とか。仕事が早く終わったなら帰ればいいし終わらなかったら次の日の自分が頑張ればいい。仕事が溜まるならみんなと分担すればいい。一人で終わる量を賄うのが仕事というものだろう。量の大小如何に関わらず、根性で片付けられる部分は高が知れている。競泳とかマラソンとか。レポートとか営業とか。社会が時間の元成り立っていて、人間が自らの行動原理に沿って昼動いて夜は寝るのは、基本的には覆せないものだ。遺伝子にコントロールされた時間は我々が生まれる前から時間には逆らえないぞと脅しているかのように現実を突きつけてくる。誕生とか寿命とか。
もちろんこれはそんな時間を無為にしてつらつらととりとめもないことを述べるだけに過ぎない。執筆時間は何かを犠牲に成り立っている。交遊とか団欒とか。何をするにも時間が必要で、我々は時間を対価に行動をしている。もちろん時間だけで対価が足りない場合は加えて別の対価が支払われる。金とか命とか。一概に、忙しい人というのは何かに追われているものだ。ノルマとかギャングとか。ギャングとは無粋な対比の対象になってしまったものだ。生き方は芯が通ってさえいれば誰でもまともに生きていけるものだし、それがその人の信念と結びついているなら我々は干渉のしようもない。我々は所詮自分の周り、手の届く範囲のコミュニティで生きていくことになるのだ。強欲は身を滅ぼす。虚心でありたい。恋愛とか結婚とか。陳腐だ。
宇宙はいずれ終焉を迎えるわけだ。地球で何兆円という金が一瞬で飛び交っている中、宇宙の年齢は137億歳、これだけ聞くとまだそれしか経っていないのかと思えてしまう。頑張ってるんじゃないか、きっと。地球は64億歳。地球が太陽に飲み込まれて死ぬのが先か宇宙が成長できずに死んでいくのが先か。その頃に我々生命は地球上で生きているのか死んでいるのか。限られた時間の中で絶望するかやれることをやるか何も考えず過ごすかは自由で、己が判断に任されている。責任とか覚悟とか。
無限と思われていた世界の中で、一番に追われるべき時間の概念を失った人は何に追われるのだろうか。自由とか飽和とか。不老不死の国で流行したものは自殺らしい。何かに後ろを突かれるから焦燥感が出るのかもしれない。人は、死を持つ時点で時間の概念からは切り離せないし、まあ何より宇宙なぞ無限ではない。
今同じの書けるかっていったら無理だろうな〜あ〜痛い痛い
夢の話
誰かにとっての有益な話でなければならないと言ったのは誰だろうか(誰でもない)。
よく自分は昔の記憶を息苦しい悪夢のように捉えている。ことがある。
何もかもが上手くいっていなかったわけではないだろうが、人生の選択を周りの数倍は違えていたように感じている。これは今でも感じているけれどあのころはそれを喫緊で治すべくある課題として感じていたのだから息苦しい。
理想の生活像があったのだろう。そしてなんか、屁理屈でもこねれば変わるのだろうとどこかで思っていたに違いない。視野が少しづつ広がり、周りが見えていくにつれてなんとも言えない諦めのようなものが広がっていくのを感じた。この文脈からして夢から覚めていったのだろう。決して焦りや不安は感じなかった。地に足がついていくような、イメージの中の自分と実際の行動が一致するような感覚を少しづつ覚えていけたのは心地よかった。
理想論者なので、出来てなくても語ってしまう理想は誰にとっての薬にもならなくてよく現実を見ろよと言われるわけであるが、夢の中で壁を壊そうとしても現実普通の壁は壊せないものだ。今でも抜けない癖のひとつだけど、意識から意志に変えられるようであれば、一筋だけでも光明が差してくれるのかもしれない。
まだ夢の中。
自己犠牲ということ
射幸心というものは人間にとって、少なくとも自分にとっては甘美な響きだったりする。いい語感だなとか思っている訳ではなく、純粋な精神論にストレートに訴えかけられるためだ。
他人Aに「私は〇を求めているけれどそのためにはあなたに×してもらわなければならない」という事象が存在した際に、他人Aから「その際、あなたはそのおかげで今より良い△が手に入る」と交渉された時に非常に弱くなるように設計されている気がする。
仮に「×すること」が自らの手間を取らせる程度のものであれば、例えば落としたペンを拾って渡すとか、その程度のことであれば今回話題に上がるべくもないことで、問題なのは例えば「誰も気に止めていないが、自分が駐輪していた任意の自転車置き場で将棋倒しになっている自転車を起こす」とか、「街中でどう見ても学校が企画した募金をやっていてその目の前を通った時」である。
直して気分がいいのはどこかにあるだろうし、募金してなにかに役立った気になれるのは非常にいいことだ。
ただ、それは「直接的に利益は無いもののあなたの行動で大勢が少なからず助かりましたよ」、とヒロイズムに似た精神のおハナシをイメージさせる。
純粋な善意に身を委ねるのは悪くない。ただ、どこか自分の中か、もしくは相手の手段のどちらかにある、オブラートに包みきれていないあけすけな射幸心をどちらかがどうにかして利用するつもりでいるのであれば、急に浅はかな欺瞞や偽善に繋がるような、そんな気がしてしまう。
射幸心を煽られて行動することは何も悪ではないが、人から求められて動いたり、自分から何かを行動したりする際に見え隠れするほんの僅かな「欲」に、やはり多少うんざりしてしまうような、自分の浅はかさにがっかりするような…
自己犠牲の精神はそうした基盤の上に精神安定剤として静かに横たわっている。「あなたの役に立つためにやっているんです」と「そうして納得していただいた際にいただくものがお代です」とまあ仕事なら強引に言い訳が付けられるので麻痺していたが、ふと再び考えてみた。
やはり不毛。精神的な話題は考えないに越したことはないなとつくづく感じる。まあただ考えてしまったものはしょうがないのでこうして碌に校正もしない思考垂れ流しの文章に収めることにした。
下心は上手くコントロールしてなんぼ。性格を変えられないのであれば上手くコントロールしてしまいたいと思う私でした。
今回も最後までお読みいただきありがとうございます。ブログの更新日は心の隙間が空いた日ですので、便りのないのは元気の証くらいに考えておいてください。
それでは。👋
終点
終点。決してスマブラの話ではない。
終点を見たことはあるだろうか?電車、高速道路、新幹線…道が終わって、別の道に続いて行くためのターニングポイント。
実家を出て1年経ち、2度目の引越しをした地で半年過ごし、印象的なふたつの終点を見た。
ひとつは有料道路の終点。中心部から伸びベッドタウンに通じている。道が都市の切り替わりを映しているようで何度か使ったが…地元では味わえない街の切り替わりが印象深い。
もうひとつは一般道の終点。道路標識に終点って書いてあってびっくりした。もう大きな道が1本しかなくなり、最後には有料道路が待ち構えている。周りは高いビルも山もないので空が広がっていく。
道の終わりを考えるのがいつからか好きになった。なにかの切り替わりのきっかけだし、あのそこはかとない寂しさをある程度インスタントに味わえるからだ。
最後まで残っているとなにか必要とされている感覚(もちろん勘違いだ)に浸ることが出来る。対人でこれを行うと損しかしないので、脳内から出る謎の快楽物質は対物で済ませるようにしている。今回はそのひとつを記しておく。
皆も自分だけの終点を見つけてみよう!
それでは。
圧倒的に美味い米の話
諸君らはめちゃめちゃ美味い米を食べたことがあるだろうか。
もしある程度食べるのが好きで米に対して無感動に口を動かしている者がいたらぜひ手に取って欲しい米がある。
特に協賛も受けていないし案件でもないのだが紹介させていただきたい。
青天の霹靂
である。
5kg¥2,600。くらい。
この米は自分を狂わせた。
何より米力が高い(?)
最大の特徴はその旨みにある。有り得んお米の美味さを体感出来る。うま味のディープラーニングによって味が遺伝子に刻まれる(???)
水分量はある程度少なめ、モチモチと言うよりはしっかりとした粒の食感を楽しめる米だ。
もう手放せない。値段が高い。破産してしまう。でも美味しい。カレーや納豆にも合う万能さも兼ね備えているのでまた買っちゃう。
変な名前の専門店に行ってクソ高いパン買うよりもスーパーで青天の霹靂を買え。
というお話。
みんなも見つけたら買ってみてね。
↑公式サイトでございます。
モグモグ
コウサテンとカンジュセイ
交差点を虚しいと感じた高校生時代の自分は一体何を交差点に見いだしていたのだろうか?
道を目的地にして車を走らせる人はそう居ない。いろは坂を走りたい、箱根ターンパイクを颯爽と駆け抜けたい、景勝地を景色を楽しみながらツーリングしたい。まあ分かる。分かるが、例外だ。ごく一般の道の交差点を目的地にして車を走らせる人はただの変態だ。誰しも家に帰ったり、遊びに行ったり、買い物に行ったりして通るものであって、交差点に行くために交差点通っている訳では無い。そう。すごい当たり前のことを言っている。
意識の交錯を考えて、しかし車は究極のプライベートスペースでもある。交差しているのは道であって意識ではない。他の車に乗っている人が何を考えているかなんて考えながら運転はしない。意識も交錯していない。当たり前である。
顧みるに、そうこう考えているうちに、歩いて帰る途中の腹を空かせた一高校生は交差点に対して虚しいという感情を覚えたのだろう。
昔の自分の世界の認識の狭さは特筆すべきものがあったが、そんな自己完結した視線で捉えた物事は、もう今は同じようには捉えられない。洗練させて、昇華させて、研ぎ澄ませていれば、もしかしたら何かが変わっていたのかもしれない。たらればはいつだって虚しい心を満たしてくれるものだ。
一時の虚しさを吐露するために、そこでは一存在未満であれる場所として交差点を選んだのであれば、もう今となって言えることは、信号待ち、暇だったんだろうなということである。
おそらく誰も共感できないことシリーズ第n弾なのでここに供養します。それでは。