自己犠牲ということ

射幸心というものは人間にとって、少なくとも自分にとっては甘美な響きだったりする。いい語感だなとか思っている訳ではなく、純粋な精神論にストレートに訴えかけられるためだ。

 

他人Aに「私は〇を求めているけれどそのためにはあなたに×してもらわなければならない」という事象が存在した際に、他人Aから「その際、あなたはそのおかげで今より良い△が手に入る」と交渉された時に非常に弱くなるように設計されている気がする。

 

仮に「×すること」が自らの手間を取らせる程度のものであれば、例えば落としたペンを拾って渡すとか、その程度のことであれば今回話題に上がるべくもないことで、問題なのは例えば「誰も気に止めていないが、自分が駐輪していた任意の自転車置き場で将棋倒しになっている自転車を起こす」とか、「街中でどう見ても学校が企画した募金をやっていてその目の前を通った時」である。

 

直して気分がいいのはどこかにあるだろうし、募金してなにかに役立った気になれるのは非常にいいことだ。

ただ、それは「直接的に利益は無いもののあなたの行動で大勢が少なからず助かりましたよ」、とヒロイズムに似た精神のおハナシをイメージさせる。

 

純粋な善意に身を委ねるのは悪くない。ただ、どこか自分の中か、もしくは相手の手段のどちらかにある、オブラートに包みきれていないあけすけな射幸心をどちらかがどうにかして利用するつもりでいるのであれば、急に浅はかな欺瞞や偽善に繋がるような、そんな気がしてしまう。

 

射幸心を煽られて行動することは何も悪ではないが、人から求められて動いたり、自分から何かを行動したりする際に見え隠れするほんの僅かな「欲」に、やはり多少うんざりしてしまうような、自分の浅はかさにがっかりするような…

 

自己犠牲の精神はそうした基盤の上に精神安定剤として静かに横たわっている。「あなたの役に立つためにやっているんです」と「そうして納得していただいた際にいただくものがお代です」とまあ仕事なら強引に言い訳が付けられるので麻痺していたが、ふと再び考えてみた。

 

やはり不毛。精神的な話題は考えないに越したことはないなとつくづく感じる。まあただ考えてしまったものはしょうがないのでこうして碌に校正もしない思考垂れ流しの文章に収めることにした。

 

下心は上手くコントロールしてなんぼ。性格を変えられないのであれば上手くコントロールしてしまいたいと思う私でした。

 

今回も最後までお読みいただきありがとうございます。ブログの更新日は心の隙間が空いた日ですので、便りのないのは元気の証くらいに考えておいてください。

 

それでは。👋