コウサテンとカンジュセイ

交差点を虚しいと感じた高校生時代の自分は一体何を交差点に見いだしていたのだろうか?

 

道を目的地にして車を走らせる人はそう居ない。いろは坂を走りたい、箱根ターンパイクを颯爽と駆け抜けたい、景勝地を景色を楽しみながらツーリングしたい。まあ分かる。分かるが、例外だ。ごく一般の道の交差点を目的地にして車を走らせる人はただの変態だ。誰しも家に帰ったり、遊びに行ったり、買い物に行ったりして通るものであって、交差点に行くために交差点通っている訳では無い。そう。すごい当たり前のことを言っている。

 

意識の交錯を考えて、しかし車は究極のプライベートスペースでもある。交差しているのは道であって意識ではない。他の車に乗っている人が何を考えているかなんて考えながら運転はしない。意識も交錯していない。当たり前である。

 

顧みるに、そうこう考えているうちに、歩いて帰る途中の腹を空かせた一高校生は交差点に対して虚しいという感情を覚えたのだろう。

 

昔の自分の世界の認識の狭さは特筆すべきものがあったが、そんな自己完結した視線で捉えた物事は、もう今は同じようには捉えられない。洗練させて、昇華させて、研ぎ澄ませていれば、もしかしたら何かが変わっていたのかもしれない。たらればはいつだって虚しい心を満たしてくれるものだ。

 

一時の虚しさを吐露するために、そこでは一存在未満であれる場所として交差点を選んだのであれば、もう今となって言えることは、信号待ち、暇だったんだろうなということである。

 

おそらく誰も共感できないことシリーズ第n弾なのでここに供養します。それでは。